• 于勒 : ?〜?
  • 異腦王 : 在位 ?〜?
  • 李承休 : 1224(高宗11)〜1300(忠烈王26)
  • 申淑 : ?〜1160(毅宗 14)
  • 金?? : 1541(中宗 36)〜1593(宣祖 26)
  • 南亨祐 : 1874〜1943
  • 金???? : 1891 〜 ?


  • 于勒 : ?〜?

    新羅眞興王時の樂師. 韓國3大樂聖のなかのひとり

    元來高靈加羅國の人であり嘉實王が唐國樂器を見て加耶琴を作った後 棟爆 の方 言がそれぞれ異なるので聲音をどのように一定にするのだろうか狽ニ言った省熱 縣人である彼に12曲を作らせた。その後 加羅國が亂れるや551年ごろに加耶琴を もって新羅に亡命し眞興王の寵愛を受けた。

    亡命後には主に國原小京(忠州)で活動した。いまも忠州では大門山下に琴休浦が おり, その上に于勒が加耶琴を彈いた所と伝えられる彈琴臺がある。

    于勒がつくったという于勒12曲は彼が新羅に亡命する前嘉實王(嘉悉王)の時に作っ た加耶琴曲として現在はその樂曲名だけが伝わっている。

    于勒12曲は下加羅都・上加羅都・宝伎・達己・思勿・勿慧・下奇物・師子伎・居 烈・沙八兮・爾赦・上奇物等があるが, 大部分の曲名が当時の郡縣名とほぼ同じ であることを見るにその 地方民謠の性格持っているようだ。

    加耶琴および于勒12曲關聯の基本史料は『三國史記』4, 眞興王12年??と雜誌1樂 典に伝えられおり『東國輿地勝覽』にも類似した記録が見える。

  • 異腦王 : 在位 ?〜?

    大加耶の第9代目の王

    已富利知加ともいう。大加耶始祖 惱窒朱日(または伊珍阿??王・内珍朱智)の8代 目の孫として夫人は新羅の伊?? 比枝輩(または比助夫)の娘(または妹である。6世 紀に入って百濟と新羅の 攻撃が續くや新羅との親善を図り, 522年(法興王 9)新 羅に請婚し比枝輩の娘(または 比助夫の妹)を王妃として迎え入れた。 新羅は初 め王女とともに100名の侍從を送ったが, これらのなりゆきが問題になり兩國關係 が惡くなった。これに對して新羅が王妃の送還を要求したが 拒絶した。

    524年には新羅南部国境線を巡視していた法興王と会ったこともある。

    異脳王の息子である第10代王の月光太子である。月光太子は、第16代王の道設智 王と同一人だという見解があり、このような世系の差を10を16に記録を間違えた か、それとも、10代は直系で16代という数を王系で みる見解もある。そして、加 耶・新羅人の名前語尾には「智・錙」が付くのが一般的にみて、異脳王の「脳」 字は「錙」字の間違いであるとみる場合もある。

  • 李承休 : 1224(高宗11)〜1300(忠烈王26)

    高麗後期の文人・學者

    現在殘っている高麗時代の三大史書のひとつである『帝王韻紀』の著者であり京 山府(星州)の加利縣(高靈郡 星山面)の人である。 加利は高靈に??接している星 山面一帶を言う。字は休休, 号は動安居士という。

    李承休は幼い時 父をなくし 高宗の時文科に及第したが、官位に就く氣はなく母 の實家である江原道三陟の頭陀山龜洞(三陟に入り農業に從事し10余年間母を奉養 した。もともと正直な性分で欲心がなく, また 佛??を深く信奉した。

    元宗の時代のソウルである開京に出て 都兵馬録事になり三別抄の反亂を平定する が、立派な意見を提出し, また 当時 塗炭の苦しみに陷った國のくらしを助ける ため策を上訴したが 選擇され得なかった。

    その後 順安公 ??が元國にいく時 その書状官として同行し 燕京で文名をはせた。 忠烈王の 時は監察御使になり時政得失15カ條を上げ紀綱を正し, また 右司諫に なり楊廣・忠??の兩道の按察使になり反對する官吏7名を罰し 官吏に對する規律 を嚴しくした。

    その後 社會問題について問題点を上訴したが、頭陀山龜洞に歸ったが, ここで10年 間蟄居しながら『帝王韻紀』を著した。 彼は晩年に忠烈王の寵愛を受け國政を正 すのに大きく寄與するが, 王の26年(1300)に世を去った。その時77才あった。

  • 申淑 : ?〜1160(毅宗 14).

    高麗前期の文臣. 本貫は高靈.

    仁宗の時 明經科に及第し, ??廉し忠實さゆえ評判になった。正しくないことがあ るとただ見過すごすことをせず, 内侍たちの專??を糾彈したりもした。いくつか の官職を移り御史雜端に至った。毅宗の初め侍御史 宋??とともに閤門に閉じこも り3日間時事を論じたり回報がないとすぐに病氣を口實に辭職した。

    1152年(睿宗6)右諫議大夫に任命された時内侍尹言文が不思議な石を集めて壽昌宮 の北の庭に假山を作りその傍らに東屋を建てぜいたくをきわめた。そうすると 給 事中の壬??と一??に王への奉文を上げ尹言文等を罷職させることを請う事件は有 名である。

    1158年(毅宗12)には知門下省事に上り平章事崔允儀,同知樞密院事金永夫とともに 賞春亭に進み星辰で祭祀を執り行ない雨ごいをした。同じ年の6月王が宦官の鄭言 咸を權知閤門祗候に任命したことで諫議大夫 金言易, 柳公材, 中書舍人の洪源滌 , 起居舍人の金于蕃, 左正言の許勢修等とともに王への奉文を上げ それを不当だ といさめた。回報がないとすぐ一人で大闕に入ってまた諫言した。

    しかし 彈劾事件で恨みを買うように彼は守司空??書右僕射に左遷しされ, 翌年 官職を捨て故??に歸った。少し後に再び召喚されたが, 参知政事で年をとって官 職を退いた。

  • 金?? : 1541(中宗36)〜1593(宣祖26).

    朝鮮宣祖の時の義兵長・學者. 本貫は高靈.

    字は志海号は松庵であり高靈出身である。父は慶源府史の世文でおり, 母は金海 金氏であり判官仲孫の娘である。早くに性理學の大家である??植に師事し, 李滉 の門下で性理學を練磨した。

    1592年(宣祖25) 壬辰倭亂が起るや 5月に趙宗道・郭奏・文緯等とともに居昌と高 靈で義兵を起こした。金山と開寧の間に駐屯した敵兵10万と牛旨で對峙したが, 攻撃してくる適の先鋒を晋州長官の金時敏とともに知禮で追い拂い大勝を收めた。 その大勝利で陜川郡守に任命され, その後茂溪でも勝戰を重ね9月に僉知事に任命 され, 11月に義兵大長の??書を受けた。その時高靈・知禮・金山・宜寧等を修復 した功績に痛く感心した王はこれらを軍事で勤王に仕えるように命じたが, 民が 激しく泣きながら保護を請い觀察使の金誠一も長計を上げるや本道にとどまり守 護しろとの??書が下された。

    翌年の1593年1月に慶??右道兵馬節度使になり忠??・全羅道の義兵とともに金山に 進駐し善山の適を撃退させる準備を整える途中に当然病にかかるや自分の死を發 表するなと遺言を殘して死んだ。幾人の將軍が彼の遺命を尊重して新倉まで歸っ てきた後で始めて發表すると,軍士たちが痛哭し民も至極悲しんだ。觀察使の金誠 一が長計をあげ報告すると, 王が悲しんだ礼官を送り致祭させるように兵曹判書 兼知義禁府事に命じた。

    普段 鄭求と交わりが深く憤って義絶があった。 高靈の(道巖祠に位卑を祭られ, 1607年に再び宣武原從功に記録され, 死後吏曹判書の位が送られた。

  • 南亨祐 : 1874〜1943

    高靈人であり, 高靈の縣監として善政を敷いた南石??(1824〜26在任)の玄孫であ り, 号を痩石といった。 高靈邑で出生した。李斗勳の勸めで普成專門學??法學科 を卒業し, 母校で學監, 交感, ??長を歴任した。??南??育會を組織・運營し 人才 育成に盡力した。

    1909年普成專門學??に勤めていた時 安熙濟, 金東三, 尹炳浩, 徐相日, 朴重華等 と大同??年黨という秘密結社を組織した。1915年1月15日には大邱市壽城區安逸庵 で表面上は詩會と称して秘密結社である朝鮮國權回復團を組織した。1919年3・1獨 立運動が起きるや南亨祐は慶南 昌原で示威運動を積極的に主導した。その一方で 上海で樹立された大韓民國臨時政府に??相淵, 徐相權, 徐相??等が國内で募金し た獨立運動資金を伝達した。また朝鮮國權回復團の資金の運搬を擔当したりもし た。

    3・1獨立運動後には上海臨時政府にわたり交通長官と法務長官・外務長官等の職 責を擔当し臨政要員として活躍した。 1921年には新大韓同盟團を組織し抗日獨立 運動を展開し, 1922年には國民代表會準備委員會を構成し その間分裂した獨立運 動團体を統合した。その後1925年には北京で??天澤, 元世勳等と抗日運動をつづ け, 口をつぐんで秘密を守る「多勿團」という秘密結社を組織して主に獨立運動 資金を募金し, また惡質な親日派を暗殺除去する仕事に全力を盡くした。

    1928年 彼は滿洲ハルピンに移り私設學院を運營して僑胞??育と獨立精神を鼓舞し たが日本警察に逮捕され故??に強制護送された。滿洲での過勞と病魔(風土病)で 健康を害し, また 日に日に??える日帝の監視に抗拒したが1943年3月13日に服毒 自殺してしまった。

    1983年に建國襃章(建國勳章愛族章)を受けた。1984年には大加耶公園の中に彼の 功績をほめたたえる殉國記念碑がある.

  • 金???? : 1891 〜 ?

    獨立運動家, 政治家.

    1891年12月10日 高靈邑楮田里で出生した。号は令洲である。棄齊金守雍の12世孫 であり幼少より總名であり乃谷書堂で李斗勳に漢文を修めた。

    1917年には日本にわたり東京正則英語學校を經て早稻田大學に入學した。日本留 學時代に民族の慘憺たる現實を痛憤するようになり, 1918年には朝鮮留學生たち と在日本東京朝鮮??年獨立團を結成した。1919年には朝鮮自主獨立團の實行委員 と同團の代表で選ばれ同年2月8日朝鮮??年獨立團の獨立宣言であるいわゆる「2・ 8 獨立宣言」の代表として決意文を發表する途中に日本警察に連行され, 投獄さ れ7カ月半の獄苦を味わった。

    次の年に出監した彼は上海に亡命し獨立運動をし, 1927年には運動本據地を滿洲 吉林省に移し朝鮮獨立運動者後援會の創立委員になった。その後金佐鎭, 李??天 と力を合わせ策進會を 組織した。そのほか「韓國獨立團」の幹部と駐中??年會の 代表として活動した。

    1937年臨時政府が重慶に移ったことにより副主席 金奎植とともに四川省孫家花園 に移住し救國鬪爭を續けた。1942年には臨時政府國務委員學務委員長になり, 1945年 8月祖國光復とともに國務委員文化部長になり金九主席とともに歸國した。彼は1947年 美軍政の過渡立法會議立法委員として活躍する一方 母校の??新中・高等學??の ??長として??育に力を注いだ。1948年總選で初代制憲國會の議員として当選し憲 法基礎委員として選任され, 特に反民族行爲特別調査委員會の委員長として選任さ れ親日勢力肅??に力を注いだ。

    6・25戰爭の時北韓に拉致され, 關西碧憧で最期を遂げたという。1990年4月政府 から建國勳章國民章を送られた。そして1993年 高靈郡民たちが高靈邑主山のふも とに建てた彼の事蹟碑がある。

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