高靈地域は大加耶と新羅, 高麗, 朝鮮等を經て今日に至るまで約2千余年の長い歴 史的伝統を もっている。それゆえ 高靈地域を中心として口承くされる伝説と説 話は無數にある。伝説と説話はこの地域の生活方式と地域住民の意識をよく描き 出しており, また歴史的事實と文學的 虚構を通じてこの地域の興亡盛衰を斷片的 ながら描き出しているためこの地域の歴史的伝統と民衆の生活方式を理解する上 で非常に重要な資料である。

高靈地域で伝承されたり採録された伝説と説話をみると建國神話, 孝行の話, 愛 話, 由來談, 知惠のある話, ??訓的な内容が描かれた話, コーモアと風刺で滿ち た話などさまざまな話がある。

  • 正見母主説
  • 孝婦嫁
  • 虎女と巣Tト(役人)柱
  • 西洲コルの話
  • 白蓮大師と虎
  • 松庵先生の夫人と瓢箪の説話
  • 40文章 呉??


  • 孝婦嫁

    貧しい家に嫁いで來て兩親に孝行するや山の神が助けてくれて、裕福に暮らせるよ うになったという話である。

    むかしむかしイルリャンという所に、とても貧乏ですが、人好しの農夫婦が住ん でいました。この夫婦はとても貧乏でしたので、食事もままならなかったのです が、それよりも、もっと後継ぎがいないことをいつも心配していました。夫婦は 後の山にある庵子に寄って、毎日、心を込めて祈り、ようやく息子を授かること ができました。

    歳月が過ぎて、その子供が成長し、結婚させようとすると貧しくても人好しで親 孝行な青年をお互いに自分の娘婿にもらおうとした。農夫婦は近くの村に住む娘 さんを嫁にもらい、幸せに暮していました。ところが、このお嫁さんには他の人 には分からぬ苦悶が二つありました。一つは、毎朝、火種が消えないよう一生懸 命火種を守ること、もう一つは、毎日三食を??父母に作ってあげることでした。 貧乏な家でしたので、ご飯を炊いて、??父母にもてなすと、嫁はご飯を食べられ なくなることもよくありました。

    そんな事も分からぬ??父母(主人の両親)は、「ねえ、今日は一緒に食事をしよう。」 と言いながら、痩せていく嫁を見て、いつも心配していました。すると、嫁は自 分の飯茶碗の中に小茶碗を入れ、炊飯器に残っているご飯をのせて、大盛りのよ うに見せかけて、ご飯を食べるまねをしたりしました。何ヵ月が経って、嫁の顔 がとても愕くなり、見ていられないぐらいでした。「ねえ、今日は一緒に食事を しましょう」とお母さんは嫁の行動を注意深く見守っていました。ある日のこと、 お母さんは飯茶碗の中に小茶碗があるのを発見した瞬間、親孝行の嫁に感動し、 貧しさの悲しみのあまり、大声で泣いてしまいました。

    ある日、朝早く、嫁がご飯を炊きに台所へ行きましたが、誰かが火種を消してい ました。「こんなに朝早く、誰が來て火種を消したのだろう」と嫁はおかしく思 いながらも、隣の家へ行って、火種を借りて、ご飯を炊きました。しかし、次の 日も、また、その次の日も、ずっと火種が消えていました。それで、嫁は身を隠 して、(いったい誰がこんなことをするのだろう)とつきとめようとしました。 

    夜の12時が過ぎると、ある童子が現われて、台所の焚き口におしっこをして行っ てしまったではありませんか。嫁はそっと身を起こし、その童子を捕まえようと しましたが、足取りが早すぎて、捕まえることが出來ませんでした。嫁は一生懸 命、童子の後を追って行きましたが、その童子は岩の下に隠れてしまいました。 童子が隠れた所へ行くと童子はいませんでしたが、その変りに何と大きな山蔘が あるではありませんか。あまりにもびっくりして、どうしていいかわからないで いると、突然、ある一人の老人が現われて、「私はおまえの親孝行にとても感動 した。おまえにこの山蔘をあげるから、これをもって帰って、生活に役立て、もっ ともっときれいなこころで親孝行しなさい」と言いました。この嫁は感激して、 老人が去った所に向かって、心からお辞儀をしてから、山蔘を取って帰り、それ から、お金持ちになって、もっと、親孝行をして、子孫も栄えたそうです。

  • 虎女と巣Tト(役人)柱

    月山1洞に伝わる話である。谷に住む農夫が賢い虎の妻を迎え出世するようになっ たという話である。

    月山1洞には面白い話しが伝えられています。ある一匹の虎が神霊に祈って、山奥 の貧しい農夫に嫁入りをしました。山奥の農夫は優しい虎の妻を迎えて、一生懸命 勉強して科挙に及第しました(国家考試に合格する)。それで、農夫が住んでいた村 のサト(役人)として、赴任することになりました。しかし、サトは以前の貧しく て大変だった生活を忘れてしまい、虎の妻を捨てて、妓生(芸者)と一緒に生活をし ました。それでも、虎の妻は不平を一言も言わずに、夫が帰ってくるのを待ってい l 泙靴拭,暫く歳月が流れてから、サトは天理を破ったせいなのか、重病になってしまいま した。いくら良い薬を飲んでも治らなかったので、虎の妻は神霊に聞いてみまし た。すると、神霊は「おまえの主人の行いは到底、許せないことであるがおまえ の願いが至極であるので、治る方法を教えてあげよう。おまえの主人の病気を治 すためには、女の乳を10年間飲ませなければならない。」と言いました。

    虎の妻はその次の日から女の乳をもらうため、あちこち回り始めました。しかし、夫 は以前としてきれいな妓生(芸者)と遊んでいました。それでも、虎の妻はだんだん 遠い地域まで行って、乳をもらって來るようになりました。妖術玉を持っていた虎 の妻は、人の見えない所へ行くと、妖術玉を揺らして、虎に身を変え、遠い所まで 走って行き、そこでまた人間に身を変えて、人間の姿で乳をもらって帰ってきまし た。 ある日、サトと深い関係の妓生(芸者)は、虎の妻が乳をもらいに行くのを見て、 後を追って行きました。ある寂しい所へ着くと、虎の妻は妖術玉を揺らして、虎 に身を変えましたが、誤って妖術玉を落してしまいました。妓生はそれを見て、 妖術玉を拾い、それを池の中に投げ捨てました。「虎なら、虎のままでいなさい。 サトは私と一緒に暮すから。本当によかった。」と言って、サトのそばに戻って、 さらに愛敬をふりまきました。

    虎の妻はもう二回だけすれば、10年間という期限が來ると思いながら、戻って來 ましたが、妖術玉をなくしてしまったことに気が付きました。人間に戻ることが できないので、神霊にもう一度お願いして、人間にしてもらい、また、乳をもらっ てサトに飲ませました。それで、サトの病気が完全に治りました。そして、涙を 流しながら、今までの話しをサトに聞かせました。本当のことを知ってから、自 分の誤りを悟ったサトは、虎の妻ともう一度一緒に暮すことを願いましたが、虎 の妻は「もう私はサトのもとに戻れない身です。どうぞ幸せになってください。」 と言いながら、もとの虎に身を変え、山の奥へ帰って行きました。それで、いま でも虎を指して、山神霊と呼ばれています。

  • 西洲コルの話

    高霊郡雲水面柳洞は、雲水面所在地から東の方に約2q離れている村で、昔は朴氏 らの集成村であった。朴氏の姓をもっていたソンビ(士人)の一人が亡くなり、村 の後ろの方のソンジコル(墓)に埋めた。しかし、不思議なことに、この方を墓に 埋めてから朴氏の人々の人心が非常にきびしくなっただけではなく、暴悪まで振 るった。ともすれば、近隣地域の人々に狼藉を働いたりした。そうするうちに、 この村に一人の老僧が尋ねてきて朴氏の墓をみて、「10年後にはこの方が鶴になっ て還生する。」と予言した.

    この話にとても怒った朴氏がこの僧を狂った者だと言いながら殴り、追い出した 後、墓に上がると、この僧がまた尋ねてきて「お願いだから、10年が経つまでは、 墓を暴かないで下さい。もしそうしたら、大きな災難を受けます。」と言った。 しかし、誰も僧の話には、耳をかさなかった。朴氏の後孫たちがソンビ(士人)の 墓を暴くと、こんなことがあるのか。還生しようとした大きな鶴、一羽が、その 場で陽光を浴びて死んでしまった。

    そこで、やっと子孫たちは大いに後悔をしたが、どうすることもできない。まだ 1年が経たないうちに、この老僧の預言の通り、朴氏の人々は、わけも分からない 病になって死に、後を取る人が一人もいなくなった。しかし、姙娠していた一人 の賢い嫁が、朴氏の後を取る決心して、姙娠したまま柳洞村を離れて遠く密陽地 方にまで逃げ、禍いを免れたが、この方が、密陽朴氏の祖先だという不確かな話 がある。現在、柳洞に密陽朴氏は一人も住んでいないし、ソンジュッコルに、こ んなことがあってから西洲コルと呼ばれている。

  • 白蓮大師と虎

    海印寺がある加耶山に虎が人を害さなくなった理由と関聯した話である。

    海印寺がある加耶山に虎が人を害さなくなった理由と関聯した話である。 海東第一の修道、度量がある海印寺は、全国に知られた有名な寺(刹)である。海 印寺には、多くの庵子があり、その中でも白蓮庵は、海印寺の庵子の中で、一番 高い所に位置する庵子で, 白蓮和尚(僧侶)が創建したと言われている。. 白蓮和尚は、二人の弟子を教えていたが、一人の弟子は童子で、もう一人の弟子 は、虎であった。和尚が下山する時、虎と童子は親兄弟のように 仲よく遊んだり した。ある日、和尚が下山し、二人の弟子が、夕御飯を支度していたところ、童 子がつい指を切ってしまった。流れ出る血を虎に吸い取らせるようにしたが、虎 は思わず本性を抑えきれず、童子を食ってしまった。 食ってしまった後、虎は後悔したが仕方がなく、涙ばかり流していた。遅くお帰 りになった和尚が虎に事情を聞くと「これからもう一度、人を傷付ける(殺す)と お前も生き残ることはできないぞ」と言って追い出してしまった。 そんなことがあってからは加耶山で虎が人を殺すことは一度もなかったし、夜遅 く僧侶たちが山道を行くと虎が遠くから護ったという話もある。

  • 松庵先生の夫人と瓢箪の説話

    壬辰倭乱の時義兵将だった松庵金??先生の夫人についての逸話として, 夫人の叡智 で倭軍を追い払った話である。

    壬辰倭乱の際、義兵将であった松庵、金??先生の夫人に関する逸話が今まで伝え られている。夫人は全州李氏で、富護軍、煌の娘で、会原君、諍の曾孫女でもあ り、兵判、景粛公、昌寧成雲の外孫女でもあった。天性が賢淑で、先見之明があっ て、壬辰倭乱が起こる前、戦争の起ることを予言したとされている。

    早春になると、夫人は村の周りに、稲や他の穀物は植えないようにし、村の人々 に夕顔を植えるようにさせた。村の人たちは、常に夫人のことを信じていたので、 彼女の言う通りにした。秋になると村全体が夕顔で一杯になった。夫人は、村の 人達に全ての夕顔で瓠(ふくべ)を作って、松津を真っ黒に塗るようにさせる一方、 銑鉄で瓠を作って真っ黒に塗っておかせた。重い銑鉄で作った瓠は、夫人が直接 保管し、夕顔で作った瓠は村の人経ちに家族の数だけわけてあげた。

    しかも、翌年、壬辰倭乱が起き、こんなことがあってからもすぐ、良田洞の近く にまで倭敵が攻め込んで来た。夫人は村の人たちを呼び出して「皆さん、今私た ちは死ぬか生き残るかという重大な危機にあります。我々がこの村を離れても生 きる方法はないので、慌てないで私の言う通りにして下さい。そうすれば、皆が 生き残れますよ。」と言った。そして、夫人は銑鉄で作った瓠を出し、倭敵が侵 入すると予想される所にそれらをずらりと列べるようにさせた。

    何日か後、倭敵が良田洞を襲撃しようとした。しかし、村の周りに列べてある銑 鉄の瓠を見て不思議に思い、それを持ち上げてみると重量がおおよそ450斤にもなっ て、持ち上げられなかった。この時、男女老少5千あまりの人々が、高喊をたたき ながら銑鉄の瓠を片手に持って太鼓を騒々しく打ちならした。倭敵たちは、びっ くりして唐アこには、みんな力の強い雄々しい人しかいないから村に入ると一生、 生きて戻って來られないぞ。逃げよう。と言いながら逃げて行ったという。

    夫人のこのような先見之明で、当時の禍いは免れたが、丁酉再乱の時、倭敵たち は、松庵先生と夫人に対する報復で、また、良田洞に戻ってきて、村全体に火を 放って焼いてしまったという。その際には、良田洞が高霊より戸数が、もっと多 い村であったと言われている。

  • 40文章 呉??

    雲水村に伝わっている話として、40歳以後に一生懸命に勉強し成功したという話で ある。

    雲水地方では、「40文章呉??」という話を知らない人が殆んどない。昔、「呉??」 という人は、一文不知でとてもいばっていた。 非常に暑いある夏の日、今日も呉 ??は、村の前にある涼しい亭子の木の下で、蝉の鳴き声を聞きながら昼寝をして いた。

    この時、一人の人が訃告状を持ってきて、呉??の太平の眠りを覚ましながら、 「申し訳ございません.この告状をご覧になって、恐縮ですが、人をちょっと教え ていただければ」と言った。不幸なことにも訃告状を持ってきたこの人もやはり 字を知らない人であった。呉??は、その人から訃告状を受け取り、まるで字をよ く知っているようなふりをしながら自分の無知を隠して「その人は、この村の人 ではない。」と威張って言った。すると、訃告状を持ってきたこの人は??首を傾 げながら訃告状を持って帰った。

    しかし、他の人に聞いてみるとその人は、呉??の村の人ではないかと言いながら 亭子の木の下の方に一緒にくるのではないか。呉??は、自分の無知がばれたのが 恥ずかしくて、穴があったら入りたいような気持でいたところに、一緒に來た人 は他でもなく、呉??の村に住んでいる訓長先生であった。

    訓長は、「呉??、お前は字が分からなかったら正直に分からないと言ったらよかっ たのに、どうして遠くから来た人に、よけいな苦勞をさせようと嘘を付くのか」 といいながら、相手をたしなめた。恥をかいた呉??は家に戻ってきて、何日間じっ くり考えた後、村の訓長を訪ねて「先生、僕今年で40ですが、あの子達と一緒に 勉強しようと思いますので、なにとぞ宜しくお願い致します。」と言った。その 時から、呉??は子供だちと一緒に一生懸命勉強をした。一生懸命努力した甲斐が あって呉??は、進士の試験に合格し、郷吏に戻ってきて住民たちを先導したり、 弟子を養成したりして、住民皆に尊敬されるようになった。

    このような呉??を後世の人々は「40文章 呉??」と言い、その話が今日まで伝えら れている。

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