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高麗時期の高靈
朝鮮時期の高靈

高麗時期の高靈
新羅敬順王の自發的な降伏をうけ後百濟を討伐し後三國の統一に成功した高麗太 祖王建は円滑な領域支配のため地方統治組織を改編した。その作業の一環として
まず, 太祖23年(940)に 州府郡縣の名称を改め新羅時代の郡縣を再編した。
高靈は大加耶國の滅亡で大加耶郡になったが景??王の時に地方行政組織改編によ
り高靈郡と改称されたのち康州に隶屬した。統一新羅時期に高靈郡は冶爐縣と新
復縣のふたつの領縣を置いていた。このうち冶爐縣は新羅景??王の時の名称が高
麗時代にもそのまま使用されており, 高麗顯宗9年(1018)に晋州牧管下陜川郡の屬
邑になった。
しかし新復縣は『三國史記』にも桃。未詳狽ニされ、その移屬關係をくわしく知
ることはできないとある。
高靈郡は太祖23年(940)に慶山府に屬郡になった。それでも顯宗9年(1018)になり
郡縣制度を全國的に再び改革した。その時慶山府には仁同縣, 知禮縣, 加利縣,
八??縣, 金山縣, 黄澗縣, 管城縣, 安邑縣, 陽山縣, 利山縣, 大丘縣, 花円縣,
河濱縣等13個の縣が屬縣としてさらに置かれた。高靈郡は慶山府の所屬の郡とし
てそのまま存在したため若木縣まであわせて全部で1郡14縣が慶山府に隶屬させら
れるようにになった。
明宗5年(1175)に監務が派遣され行政を統轄させたことを除いては高靈郡の基本的
な行政組織は高麗末まで変動せず持續した。監務は縣令を置けない小規模の縣に
置いた。監務は縣を監督し 流望民を世話する仕事をした。監務制度は朝鮮初期ま
で存續し,のちに縣監と改称された。
佛??が國??だった高麗時代に高靈でも佛像をはじめ優秀な佛??藝術品が多く作ら
れ, 有名な寺も多かった。しかし高麗佛??と高靈との關係で見逃がすことのでき
ないことはやはり大藏經 運搬に關聯したことである。
現在陜川海印寺にある八万大藏經は高宗の時, 江都の避難處で再彫したものであ る。八万大藏經は佛??思想の一大偉業として,
全國民の佛心をもって一致しない なら成し得ない大業だった。この八万大藏經がいつの時期に海印寺に移されたも のかは確實ではない。
しかしいつの時期かにこの大藏經が高靈郡開津面開浦を通じて海印寺に運搬され た。開浦は 高靈邑から東方に6km離れた地點に位置する洛東江のほとりの重要は
交通要地であった。開浦はまた奇巖絶壁がつづいており昔から詩人墨客の遊??場 としても有名であり, 穀物と魚と鹽の 集散地としてもよく知られいた。ここは元
來開山浦と呼ばれたが, のちに開經浦と改称された。だが日帝時期に韓國人の好 學愛國の魂を抹殺しようとする意図の「經」字を除き,
ただ開浦と呼ばせたと言 う。
南海から作られた八万大蔵経は船で、洛東江を通って、高霊の開浦に運ばれた。大
蔵経が開浦に届いた際、嶺南の僧侶たちが群を成して集まり、幾つかの経板を背
中に担いで、頭に載せて、現在の高霊郡の開津面のアルト町を通り、高霊邑を通
過した後、ナッジルのシンドング峠を越え、海印寺まで運んだそうである。
朝鮮時期の高靈
朝鮮初期には地方制度も中央制度とおなじく高麗の制度をそのまま引き繼いで實
施したが, 太宗14年(1414)になって大大的な改革作業が成された。??ち全國を8道
に分け, 州府郡懸をその 下に設置したである。州と府の長としては府尹・牧使・
都護府使を置き, 郡には郡守, 縣には縣令・縣監を置いた。
この時高靈に對する統治權は高麗時代から置かれていた監務から縣監に移った。 高靈縣監は從六品の人を任命した。縣監は
近隣上位職首領や兩班たちから不当な 干渉や壓力を受けず, 自身の管轄區域を責任をもって管轄できた。一般的に郡縣 の守令たちは監司の垂直的な指揮を受けながらその配下の??吏を統率し,行政・司
法・軍事の諸般任務を遂行した。このような行政体系は大きな変動もなく維持さ れた。
しかし朝鮮後期に至り高靈の行政區域に若干の変化が起きた。光海君7年(1614)に 星州から李昌??が王の非行と朝廷を誹謗する事件が發生し,
星州牧が一時廢止さ れ、高靈縣に合??された。そして2年後の1616年には再び高靈縣から分離された。 以後高宗32年(1895,
乙未)に地方官制を改訂し, 高靈縣を高靈郡に変え, 邑内等 14個の區劃を管轄させた。また縣監の代りに郡守を置き,
税務主事もひとり割り 合てた。
そののち光武10年(1906年)に再び地方官制を整備し 星州郡の9區劃と玄風郡の3區
劃を吸收し26個區劃になった。そして郡守のほかに郡主事ふたり, 財務(税務を改
称)署長, 財務主事, 警察部長と地方委員の各1人, 官屬, 書記, 巡檢 各各 數名
, 廳使 數名をおいた。
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