大加耶以後

562年新羅に??合された後大加耶の首都だった高靈地域は大加耶郡になった。そし て景??王16年(757)に高靈郡と名を変え, 康州(康州, 菁州, 州治は晋州)に所屬 した。高靈郡の領縣には冶爐縣(赤火縣いまと陜川郡冶爐面)と新復縣(加尸兮縣)が 置かれた。このようにこの時期は全國的に行なれた行政區域の整備と地域名の改 称により高靈地域も変化を經驗したという事實がわかるだけで, ほかの状況は知 ることができない。 關聯資料がないためだ。高靈地域が歴史の表面に現れるよう になったのはもう少し時が流れた後の三國時期に入ってからだ。

9世紀に入って, 百濟と高句麗の復興を唱えておきた甄萱と弓裔の勢力がそれぞれ 後百濟と泰封を建國し, いわゆる後三國時代が展開されるようになった。大加耶 の昔の土地の中に陜川と高靈地域は新羅と後百濟との國境地帶に屬する。したがっ て 新羅をまる飮みにしようとする後百濟としてはここが優先的に編入すべき對象 であり, 新羅としては当然うばわれてはならない重要な要地だった。それゆえ ふ たつの國はこの地域を包圍し熾熱な攻防戰をつづけた。それにより長年の沈黙を 破り大加耶の昔の地が歴史の表面に再び登場するようになったが, この時最も注 目されたところは大加耶の領域の中の陜川地域だった。

甄萱は軍事的に重要な大耶城(いまの陜川)を執拗に攻撃した。つまり孝恭王5年(901)8月 には甄萱が大耶城を功めたが, 落城しないので軍士を錦城以南に移したという。 そのあと景??王4年である920年10月には歩兵と騎兵1万を率いて大耶城を攻撃し陷 落指せたのち、軍士を進禮城(??道と密陽間にある烏禮山城?)へ移した。しかし高 麗太祖王建が新羅の救援要請を受けて出軍せざるを得なくなった。 しかしそれの以後陜川地域が再び後百濟影響圈に入ったのが, 927年(景哀王4年)7月 に高麗が元甫等將軍をおくり大耶城を功め後百濟の將軍鄒許祖等30余名を捕虜に して歸って来たという記録がある。後百濟の甄萱の慶州侵攻と鮑石亭での景哀王 の殺害事件が起こり, 新羅の援軍要請による高麗軍の出征と公山戰鬪での敗北等 , 一連の事件が續く急迫した状況の中で大耶城は再び後百濟の手にわたった。928年 8月に甄萱が將軍官??に命じて大耶城を確保させたという記事を通してそのことを 確認できる。

高麗の王建にも大加耶の昔の地は非常に重要な場所だった。『慶??道地理志』に は高靈郡がその地域で総wz大都護府潮 または痩i川牧管窒ニ呼ばれて来たとある。 このように高靈地域が正式行政名称ではなく高陽大都護府, または永川牧管と伝 えられてきたのには何か歴史的な背景があったのだろう。決定的な根據となる資 料はないが, 後三國時期のこの地域の動向を調べると, 王建が後百濟の勢力を牽 制するためこの地域に特別に軍事的統治機構を設置した可能性が高いものとみえ る。おそらくこの時式な行政編制には至らなかったものの, 臨時で高靈を高陽大 都護府または永川牧館と称したのではないかと思う。要するに これを通して羅末 麗初, 後三國を統一する過程で高靈地方のもつ軍事的, 政治的重要性もたいへん 大きくなったという点は推測できる。