眞興王

眞興王は新羅の第24代王として540年から576年まで在位した。姓は金で名前は森 麥宗だが, 別名は深麥夫とも言う。末年に出家して法號を法雲と言った。祖父は 智証王であり父は葛文王立宗である。また母は法興王の娘息道夫人であり妃は思 道夫人朴氏である。法興王の後を繼いて7才で??位したが, 初めは法興王妃だった 母后が太后として攝政をつとめた。 541年に異斯夫を兵部令に任命し, 百濟に對 する和親政策を用い551年(眞興王12)に開國と改元した。その年の3月に漢江流域 占領を目の前に忠州で于勒と彼の弟子泥文を呼び音樂演奏を聽いた。

眞興王は551年に百濟と聯合し高句麗を攻撃し漢江流域を占據した。漢江上流地域 は新羅が, 下流地域は百濟が占據しようと約束したが, その間高句麗と密約を交 わりした新羅は553年に 百濟を攻撃し漢江下流地域まで全部占據してそこに新州 (廣州)を設置した。これに對して新羅と百濟の間で長年維持されて来た同盟關係 が崩れた。この戰鬪に加耶も參加したが, どんな活躍をしたかは記録上に全く出 ていないためわからないが, 百濟側同盟軍として參戰したゆえ新羅が漢江下流流 域まですべて占據したことにより加耶側もじぶんの分け前を失った可能性が高い。

このような新羅の裏切りに怒った百濟の聖王が554年に新羅との對決のため先に 今の沃川地方にある管山城に行っていた太子に會うために行く途中で待ち伏せし て聖王をとらえて殺した。この管山城戰鬪で百濟は王が死んで 佐平が數十名, 軍 事が數千名死ぬ等すさまじい敗北を喫したが, 大加耶もこの戰鬪でともに參加し たがやはり被害を被った。軍事を失っただけでなく新羅の反感も買うようになっ たのである。

そうしてついた561年眞興王は將軍異斜夫を送り大加耶を平定した。眞興王は自分 が新しく開拓した地で巡狩碑をたて, 昌寧・北韓山・黄草嶺・磨雲嶺の4個の碑が いままで伝わっている。この碑の位置からもわかるように新羅は眞興王代に漢江 流域と東海岸一帶, 加耶地域等を 全部占めるようになり領土を急速に擴張した。 それだけでなく 565年に中國の陳から僧侶と佛??經典を取り入れて皇龍寺を初め 寺を建立しながら佛??をより隆盛した。また576年には花??制度を創始したが, こ の組織が新羅が三國を統一するよのに多くの役割果たした。要するに 眞興王の時 に新羅は軍事的・文化的に實力をつけ將來三國を統一する基盤を準備したと見る ことができる。

新羅琴

加耶國の于勒が新羅に亡命する時に持ってきたものとして 現在日本の正倉院に實 物が保存されている。 統一新羅時代に日本に伝えられたものと見られる。 『日本後紀』には809年頃(國時代[奈良時代])に新羅の樂師たちが伝えたものと記 録されている。日本語でシラキゴト[新羅琴]と言う。