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嘉實王とは誰か?
『三國史記』樂志の記録によれば「加耶國嘉實王が中國の樂器をみて加耶琴を作
り, 加耶諸國の方言が各各異なるため聲音をひとつにするかめ, 省熱縣出身の樂
師于勒に命じて加耶琴曲12曲を作らせた」とある。もこで加耶國嘉實王は一般的
に大加耶の王であると見られている。大加耶の王の中でも于勒が大加耶滅亡の直
前の人物であることを擧げ大加耶最後の王であったと見る説と, 479年に中國南齊
に朝貢して装纎 將軍本國王窒ニいう爵號を受けたことのある荷知王であると見る
ふたつの説がある。
??存の??究のなかで音樂史分野及び礼樂思想と關聯した??究成果を除けば, その
記事と關聯した史學界の??究は大きくふたつの方向に分けられた。文化史的接近
と政治史的接近がそれであるが, 特に後者の場合于勒が作った12曲名を加耶の國
名と連結して,いわば大加耶聯盟体の所屬國として認識している。この場合嘉實
王が于勒をして12琴曲を作らせたのは大加耶が加耶社會の盟主として活躍した時
期に加耶小國を統合するための政治的な目的で作られたものとの解釋もできる。
古代音樂の政治的な機能を考えるとき納得のいく解釋にみえる。
『三國史記』32卷, 雜誌1(樂) 加耶琴條の原文
加耶琴 亦法中國樂部箏而爲之 -(中略)- 羅古記云 加耶國嘉實王見唐之樂器而造
之 王以謂諸國方言各異聲音 豈可一哉 乃命樂師省熱縣人于勒造十二曲 後于勒以
其國將亂 攜樂器投新羅眞興王 王受之安置國原 -(中略)- 于勒所製十二曲 一曰下
加羅都 二曰上加羅都 三曰宝伎 四曰達已 五曰思勿 六曰勿慧 七曰下奇物 八曰師
子伎 九曰居烈 十曰沙八兮 十一曰爾赦 十二曰上奇物 泥文所製三曲 一曰烏 二曰
鼠 三曰鶉.
解釋文
加耶琴もやはり中國樂府の箏を模範として作られた。-(中略)-(新)羅古記に述べ
られていることでは加耶國の嘉實王が中國の樂器を見て作った。王が諸國の方言
に聲音のちがいがあるため,ひとつに統一しようと樂師である省熱縣人于勒に命
じて12曲をつくらせた。後日國が乱れるよいになるや于勒は樂器を持って新羅眞
興王に投降した。眞興王は彼を受け入れに國原(いまの忠州)に安置した。-(中略
)-于勒がつくった12曲は 1.下加羅都 2. 上加羅都 3. 宝伎 4. 達已 5. 思勿 6.
勿慧 7. 下奇物 8. 師子伎 9. 居烈 10. 沙八兮 11.爾赤欠 12. 上奇物である。
泥文が作った曲は @ 烏, A 鼠, B 鶉である。
内容説明
原文のなかの蒼rは實際の唐國(618〜907)と解釋してはだめで, 單に中國という
意味で見なければならないだろう。 なぜなら大加耶はすでに562年に滅亡したこ
とで加耶に唐國の樂器が 伝來したはずはないからである。おそらく中國南朝系統
の國であるのだろう。
于勒がつくった12曲のなかで中國南朝から伝來したものと見られる伎樂である師
子伎・宝伎の2曲を除いては全部当時の地名と對應する。それゆえ于勒が作ったと
いう12曲は彼が創作したのではなく, 5〜6世紀の大加耶の影響卷の中に入って来
た地域の國風[郡樂]を于勒が整理して加耶琴曲化したものであり, 琴歌舞が共に
入っている綜合的な舞樂曲であるものと見られる。
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