高句麗との關係

西紀400年高句麗の廣開土王は5萬の軍隊を南方に送り征伐を實施した。戰爭は新 羅の要請により新羅の王城に侵め入った加耶と倭兵を追い出すことであったが, 長年の敵であった百濟に對する背後牽制が別の目的であった。この時期 戰爭の樣 相は高句麗と新羅が味方同土, 百濟と 加耶・倭が味方同土であった。

この加耶地域の主導勢力は金海の加耶勢力であった。高靈の大加耶も勿論存在し ていたが, 完全に頭角を表わしたのは戰爭が終わった後からであった。大加耶が 加耶のいくつかの國のうちで中心勢力となった理由を400年の戰爭で戰爭の被害を あまり受けなかったためだと説明する學者もいるが、明確な根據はない。

ともかく大加耶が高句麗と關係したことは400年高句麗軍が侵め入って来た時だっ た可能性が高い。この当時大加耶は百濟と親しい關係だったため戰爭で百濟の同 盟軍として參與したためである。しかしこの時の大加耶と高句麗は戰爭または交 渉の直接な当事者として關係したのではない。

大加耶と高句麗が直接關係したのは5世紀後半であった。5世紀の初め高句麗軍の 南征以來持續した新羅と高句麗の友好的關係は5世紀中葉以後崩れ始めた。450年 には新羅と高句麗, ふたつの國の間で軍事な衝突をした。

455年からは高句麗が百濟に侵入する時に新羅が百濟に援軍を送る等高句麗に對す る共同防御態勢をとった。このような状況は5世紀末まで維持された。その時大加 耶も百濟と新羅側についた。北方の古句麗に對する百濟-新羅-大加耶の互助体系 が形成されたのである。

このような状況下で大加耶の活動範圍が廣くなった。479年大加耶が南齊に朝貢し たことや, 481年に大加耶が百濟とともに高句麗・靺鞨の新羅侵入に對して援軍を 派遣したこと等はそのような事情を反映したものと見ることができる。

そしてこの時に大加耶は高句麗に接近を始めもいた。『日本書紀』顯宗3年條に出 てくる記録からこのような事情を知ることが出来る。しかし高句麗に對する大加 耶の接近は百濟の反撥を招き, 以後百濟が加耶地域に進出する災いをもたちらす ようになった。

百濟との關係

百濟と大加耶は4世紀中葉以後から善隣友好的な關係だった。百濟は大加耶が先進 文物を受け取る通路だった。481年に高句麗と靺鞨が新羅を侵攻するや大加耶は百 濟とともに援軍を派遣した。こうしてみるとこの時期まで大加耶と百濟は友好關 係にあったようだ。こうした關係が崩れるようになったのは487年を前後の時期に 大加耶が高句麗と通交しようとした事件のためである。

しかしそれよいも根本的な理由は百濟の加耶地域, 特に加耶の南西部地域への進 出のためだった。百濟は6世紀の初め全羅道方面に關心を集中させ, 耽羅(濟州道 )との關係を再整備し,蟾津江流域に進出した。百濟のこのような試みは利害關係 のあった大加耶に相当な不安感を植えつけた。これに對し大加耶はあちこちに城 を築き,自己防御態勢を整え 百濟に對し強硬な姿勢を取った。大加耶は新羅と結 婚同盟を結び百濟に對抗した。

531年百濟は当時加耶のいくつかの國の内でもうひとつの中心勢力であった咸安の 安羅國に進出するようになるが, これは新羅の加耶地域進出を手をこまねいて見 守っていられなかったためである。この時の大加耶は加耶のいくつかの國内でも 全体を主導するべき能力を失った状態だった。むしろ咸安の安羅國が主導權を握 り加耶の外交を主導した。530年代までの事情はこのようであった。

そののち540年代の状況は『日本書紀』欽明紀に比較的詳細に現れる。541年大加 耶と安羅國を筆頭とする加耶のいくつかの國の代表が百濟で聖王とともにすでに 新羅に服屬した加耶國を再び建て直すため會議をした。この會議が百濟の首都で ある泗比(いまの夫餘)で開かれたため學者たちはこの會議を臓剩苻??c窒ニ呼ぶ。

聖王がこと會議を主導してはいたが, 百濟と加耶諸國はお互に意図することが異 なったようだ。この時の百濟は加耶の回復を本当に望みはしなかった。百濟が泗 比會議の1か月前に新羅に使臣を送った事實を見るとそのことがわかる。

百濟のこのような二律背反的な行動は北方高句麗を意識したためだろう。百濟の 立場では將来起きる高句麗との戰爭のため新羅と友好的または同盟關係の維持が 必要だったのだろう。したがって新羅の加耶地域への進出を百濟が積極的に支持 することができなかった。このような 現實は聖王への言及にもそのまま見える。 昔の事を述べながら名分だけ強調するだけですでに 新羅に滅亡させられた加耶國 の回復をため具体的な提案を提示することはできなかった。

會議に參席した加耶諸國はこのような百濟の意図を知ってか新羅と連絡をとり計 策を巡らしていた事がみてとれる。おそらく百濟と聯合しては存續が保証できな いという不安感のためだったようだ。これに對して百濟は544年に再び2次泗比會 議を開催した。この時 百濟の聖王はまたも名分とともにいわゆる3種類の計略を 立てる。しかしそれも加耶と倭だけ崔し立て百濟の自身はうしろで戰爭物資だけ 供給するという消極的な對策だった。それでいて百濟軍の加耶地域駐屯の必要性 は強調し, 安羅國で活躍している親新羅系人士たちの放逐を要求した。この加耶 の會議參席者たちは安羅王と大加耶王に相談しようと言ってひきかえした。

百濟と新羅の間を緩衝する役割をしたことが加耶諸國の運命だったが, 550年代に なると状況がかわった。 551年新羅と百濟は当時高句麗が占據していた漢江流域 を攻撃し奪った。この時の高句麗は貴族の間の内分と, 北方の新興遊牧勢力であ る突厥に對する備えをするのため漢江流域に氣を使う余裕がなかった。これから 2年後新羅は同盟國である百濟をうらぎり, 百濟が占據していた漢江下流地域を攻 撃し奪ってしまった。

新羅のこのような行動に對する百濟はがまんできなかった。百濟としては漢江下 流地域は決してゆずることのできない地域だった。戰略的・經濟的な要衝地であ ることは勿論百濟の發祥地であったため、なおさらそうだったのである。これに に對し554年百濟は大規模軍勢を起こし新羅を攻撃した。この時大加耶は百濟を助 け,新羅との戰爭に參加したが, 戰爭は百濟の慘敗に終わった。百濟は新羅との 管山城(いまの忠??北道沃川)での戰鬪で聖王が戰死し數千にのぼる兵士たちが沒 殺した等大きな敗北をきっした。

554年以後百濟はもはや加耶地域に對する 影響力を行使できなかった。戰爭に直 接參加した大加耶はこれより新羅に服屬した。555年新羅はいまの昌寧地域に軍事 的據點である下州を設置した。561年, 新羅の眞興王はそこに直接出むいて大加耶 を初め洛東江以西地域への進出をはかるため會議を開催した。そして次の年の562年 ついた大加耶は新羅將軍異斯夫が率いる軍隊によって滅亡してしまった。

新羅との關係

小國段階で大加耶と新羅がどんな關係にあったか知ることのできる資料はない。 大加耶と新羅の直接的な關係が記録上に見え始める時期は5世紀後半頃である。百 濟の加耶地域への進出により大加耶は新羅と手を結んだ。『三國史記』を見ると 496年に痩チ耶窒ェ 新羅に白いキジを送った記事があるが, その痩チ耶窒ェ大加 耶である可能性が高い。これは大加耶を中心に加耶諸國が新羅と連係しようとし た試みと見える。

以後522年には新羅に使臣をおくり王室間の結婚を請い成就させたという。いわゆ る大加耶の親新羅政策であった。しかし新羅の加耶地域への進出の野望は止まず 婚姻同盟は529年に崩壞してしまった。

そして532年南方の金冠加耶(南加羅)が新羅に降服し, 561年には昌寧地域で新羅 の軍事示威があった。その次の年の562年に大加耶は異斯夫が率いる新羅軍の奇襲 攻撃により滅亡してしまった。5世紀中葉以後から6世紀前半代にかけて大加耶は 最全盛期を極めたが、??の強大國の間間で外交的に孤立させられたまま、力不足 のため滅亡した。