日本との關係

大加耶と日本(事實日本という國名は7世紀後半になって始めて生じた。それ以前 までは遭`窒ニ呼ばれた。)との關係をしらべることのできる直接的な史料はない。 しかし池山洞44号から出土した夜光貝でつくった杓子や日本から出土した大加耶 系遺物から推し量るに大加耶と倭がお互い活溌に通交したことがわかる。

夜光貝は日本九州の南方沖 南部地域でしか菜れない。これは沖繩の人たちが直接 大加耶に伝えたというよりは北九州地域の倭の勢力により伝えられた可能性が高 い。それなら大加耶と倭を往來した使臣や交易擔当者たちはどのような道は通っ たのだろうか? 大加耶が南海岸に到達する道は大きく3種類の道がある。ひとつは 洛東江を通っていまの金海方面に進む道である。もうひとつは陜川→三嘉→晋州 を經て泗川の沖へ進む道がある。そして居昌と山??を經て小白山脈を越え河東方 面に行き蟾津江水系を利用して海に進む道がある。5世紀末・6世紀前半代の大加 耶はこの3つの道全部を活用できたのであろう。特に6世紀の初め河東地域を包圍 し、百濟と競爭を始めたようすをみるにこの時期蟾津江水系を通じた倭との交渉 を推測できる。

一方日本列島内でも大加耶系遺物が出土している。日本で須惠器と呼ばれる韓國 における陶質土器系統の土器があるが, 4世紀から5世紀初までは金海・釜山地域 を中心とする南部加耶地域の影響を受けた土器が出土し, 5世紀後半には大加耶系 土器の影響をうけたものが出土している。福岡縣・滋賀縣・大阪府等で出土して いるが, 大加耶と日本との交易が成立していたことを示している。しかし 實はふ たつの國の關係が具体的にどのように成されたかを示す資料が殆んどないため實 状が多くは明らかになっていない状態である。これもやはり今後解決しなければ ならない??究課題の言えよう