大加耶の政治

大加耶では王を頂点として政治を行なっていた。しかも末期には大加耶でも「大 王」という称號を使用したものとみられるが, 大王とは王の中の王という意味で あるとみることができる。これは大加耶が加耶のいくつかの國の間で最も中心的 位置にあったために付けられたものと見ることができる。またこれは大加耶の王 權強化と中央集權化がある程度進展した状態だったという点をものがたってもい る。

高靈の古衙洞古墳に描かれた蓮花から推し量るに大加耶では佛??が導入されてい たと見える。そのほかにも佛??關聯の遺跡と説話等を通して5世紀頃に伝來した佛 ??が6世紀中葉以後には草??h梁窒フような佛??式用語を日常的に使用し, 埋藏風 習と死後觀念にも抵抗なく自然に受け入れられる段階になっていたことを確認で きる。また佛??は國王の勸力強化を觀念的な面で支えるため導入されもした。大 加耶の佛??も同じであったようだ。大加耶で佛??は支配統治の理念的役割をした ようた。

大加耶では佛??が導入され大王という王号が使用された。このようなことは古代 國家としての發展と完成期に成されることだ。『日本書紀』にも6世紀初め大加耶 の王が新羅の王女を妻として迎え,子をもうけたが, 新羅の王女が連れてきた女 婢100人が服を取り替えて着たため婚姻が破綻したという話が出ている。この時の 女婢は單純な奴婢ではなく新羅の公服制度上の服を着ていたという点で一定の官 職をもった新羅王室の公式の護衛兵および侍從であったと見ることができる。彼 女らが大加耶に来てどんな身なりをするかは古代人の觀念としては重要なことで あった。

ところで重要な点は大加耶も新羅と同じ公服制度が實施されていたという点がう かがえる点だ。大加耶にも公服制度があったため新羅から来た人たちがどんな服 を着るかが問題視されたのだろう。そうでなければ服裝のちがいはなにも問題に ならなかっただろう。公服制度が存在したということは大加耶の官職制が發展し たということを意味する。身分差異が存在していたという証據でもある。身分に より服の色を異なっていたためである。このような事實から大加耶では王がおり, その下に序列化された貴族層があり, その下にまたいくつかの階層の身分が存在 したことがわかる。

それ以外にも大加耶は擴張された領域を統治するに部体制を實施したものと見ら れる。これは大加耶の圈域である陜川苧浦里で發見された土器の痩コ部思利利窒 ニいう文字を通して知ることができる。これは痩コ部窒ノ住む思利利窒ニ解釋さ れるが、下部とすなわら大加耶の部とみることができるようである。装白の存在 は大加耶が最小の單純な小國ではなく一定の領域を持ち,中央集權化された國家 だったことを示している。