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大加耶の滅亡
大加耶は562年新羅將軍異斯夫が率いる新羅軍により滅亡した。この戰鬪で15歳の
少年將帥斯多含は5,000名の先鋒隊で奇襲作戰を敢行し大加耶をいっきに滅亡させ
た。しかし大加耶の滅亡はそれ以前から徐々にその兆候が見えていた。大加耶の
宮中樂師だった于勒が551年(新羅 眞興王12年)以前のある時期に新羅に投人とし
て赴仕したこと等を通して見ると推し量ることができる。
532年には金海の金官國(南加羅)が新羅に降伏し, 540年代までには洛東江東の加
耶勢力の大部分が新羅に服屬した。4世紀後半以後持續的に加耶と友好的關係を維
持している百濟は新羅の加耶の侵攻に對して積極的に對抗するのが難しかった。
それは北方の高句麗にたいして氣をつかったためである。
百濟と新羅は当時高句麗に對する防御のため同盟關係を結んでいた。551年このふ
たつの同盟國は力を合わせ当時高句麗が占據していた漢江流域を攻撃し,うばっ
た。この時大加耶主要な加耶勢力も共に參戰した。攻撃に成功し,百濟は漢江下
流地域を占據し, 新羅は上流地域を 占據するに至った。しかし加耶がどんな活躍
をしたのかはよくわからない。
ところで それから2年後の553年に新羅は同盟國である百濟を攻撃し,百濟が占領
していた漢江下流地域を奪取した。漢江下流地域は百濟としては讓歩できない地
域だったため, 次の年(554年)加耶軍と倭軍を動員し、新羅の管山城攻撃に乘り出
した。この戰爭の場所は忠北沃川地域だったが、實質的には漢江下流地域と加耶
地域に對する覇權を爭う一帶決戰だった。
戰爭の初期の状況は攻撃を開始した百濟側が有利だった。が, 新羅の戰線を破り
深く攻め入った王子餘昌を慰問しようと百濟聖王が訪ねて行ったが 新羅の伏兵に
弑害されるや百濟・加耶聯合軍は一度に崩れ, 結局百濟は新羅にまたも大敗北を
喫した。ところで 百濟がこのような試練にあっているすきをついて, 今度は高句
麗が百濟雄鎭城に侵攻した。しかし百濟は高句麗の攻撃をよく防いだ。こうして
見ると戰爭の結果は百濟に打撃を與えはしたが, 致命的なものものではなかった
ようだ。
反面管山城での敗北により加耶側の被害は非常に大きかったものと推定される。
以後大加耶は次第に衰亡の道にさしかかったように見えるためである。6世紀中葉
以後 新羅は加耶諸國に對する??合に着手した。560年頃咸安の安羅國がまず新羅
に??合されたようだ。なぜなら安羅を代表とする加耶南部地域は非常に長い間對
倭交易の中心地だったが, 新羅がこの時から倭に使臣を送りもし, 一方で咸安地
域に城を築き倭に備える姿を見せたためだ。ただ安羅がどんな過程を經て滅亡し
たのかについては良く分からない。新羅の強壓と懷柔に安羅が特に抵抗もなくこ
れに應じたため??合されたものと推定できるだけである。實際は安羅の内部には
親新羅的人物が存在していたということが『日本書紀』の記録に出ている。この
ことから推量すると,百濟から直接的な連關が絶たれた状態で安羅が比較的たやす
く新羅に投降した可能性がある。
しかし大加耶を初め加耶北部地域は事情が違った。 大加耶は倭や百濟との交易も
重要な存在基盤であったが, 自体の製鐵能力や安定的な農業基盤が支えとなって
いる國だった。 末期には百濟側の文物を受用しながら自發的に親百濟的な性向を
維持していたため, 新羅に對するもう少し獨立的な姿勢を維持できた。大加耶が
崩壞しない限りその周邊の加耶諸國もたやすく新羅に投降することはなかったで
あろう。
ところで新羅眞興王が在位22年(561年)に洛東江の東方地域の要衝地である昌寧に
中央政界の最高貴族たちと地方統治の擔当者たちである四方軍主を集めた。大大
的な集まりだった。これはすでに服屬した加耶地域に對する支配を円滑に行ない
, 洛東江西方の加耶地域への進出を謀るかめ一種の軍事示威的性格を持つもので
あった。このような事實は「昌寧新羅眞興王拓境碑」を通してよく知ることがで
きる。一種の軍事作戰會議とも言えるこの集まりのあった1年後, 大加耶は異斯夫
が率いる新羅軍の侵攻を受けたようだ。
大加耶がどのような先制軍事行爲を取ったのか跡がみえない状態で斯多含の5,000の
騎兵が大加耶首都まで攻め入った。 新羅側の記録によれば眞興王が異斯夫に大加
耶を襲撃することになったが, 大加耶人は「思いがけず新羅軍隊が突然攻め入っ
て来たために非常に驚き防ぎようがなかった」とある。大加耶は新羅大軍の奇襲
攻撃により562年に滅亡したようである。
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