大加耶の發展

4世紀中葉以後加耶のいくつかの國の間で大加耶が次第に頭角をあらわしはじめた。 そして5世期後半頃に最も際立った勢力として姿を見せた。このような大加耶が成 長するようになった基礎と契機は何だっのであろうか?

これまで學界では金海の金官國から高靈の大加耶に主導權が移った背景を400年に 起きた 高句麗軍の洛東江流域進出で説明してきた。??ち高句麗軍に撃破された金 海勢力はその後衰退するようになり戰爭の被害を受けなかった高靈を中心とする 内陸の加耶勢力が後期加耶を主導するようになったのだろう。しかし戰爭が社會 進化のひとつの原動力として大きな役割をした場合もあるほどで, 戰爭以後金海 勢力が急激に衰退したと見る見方が必ず正しいとは言えない。特に 金海の大成洞 古墳群の發掘結果を通して考える時, 金海勢力は5世紀前半代まで依然として強力 な加耶國として存在していた。したがって高靈大加耶の成長要因もほかの方面に 求めなければならないようだ。

大加耶發展の契機になったのは4世紀代に起きたあるひとつの事件であった。『日 本書紀』 神功紀49年の記事, ??ち 倭の揃國 平定記事窒ノ加羅, つまり大加耶の 存在が見える。369年に起きた出来事と見られるこの記述に金海の南加羅に比され る加羅という國名で高靈勢力の存在が現れるのを見るに, この時すでに加耶の幾 つかの國の間で高靈加羅が主要政治勢力として浮上したものであることがわかる。

倭が韓半島と交渉しようという目的は鐵を初め先進文物の導入にあった。鐵は主 に加耶を通じて輸入していき、そのほかの先進文物は加耶・百濟をはじめとして 中國郡縣と本土から取り入れた。ところで 高句麗の 樂浪・帶方故地の掌握によ り中國と通交が遮斷され, 先進文物の仕入れ先を伝統的な友好國である加耶と百 濟に限定するしかなくなった。高靈は南海岸から洛東江を利用して川をさかのぼっ ていける地域である。そして高靈は居昌・咸陽等の内陸地域と通じることができ , さらに小白山脈を越え撫州・長水・任實・南原等にも行ける。北には星州・金 泉を經て, 秋風嶺を越え黄澗・永同に進んでいける地域である。東には洛東江を わたりすぐに 大邱進んでいける。

高靈地域のこのような地理的利点がすなわち5世紀以後加耶において最も強力な地 域國家に 成長し得た基盤だった。地理的利点により交易を円滑にすることができ た。百濟等を通じて先進文物の吸收もほかの加耶國に比べて早かった。 大加耶の 主要交易品は陜川冶爐地域で生産される鐵と安定した農業基盤を基に生産された 農産物だった。すなわち大加耶が加耶後期強力な國家に成長し得た基盤は有利な 交易路の確保を通じる鐵の輸出と安定される農業基盤にあったようだ。そして外 部からそれを守ることのできる強力な防御力を整えていたという点を擧げること ができるようだ。池山洞古墳群と同じ大型高塚古墳群は大加耶の發展状況を最も よく示しているようだ。

大加耶はそれ自体の發展を基として周邊加耶地域への進出も斷行した。『日本書 紀』を見ると, 大加耶は6世紀初に己??(=南原・任實)と帶沙(=河東)地方を包圍し 百濟と對立した。結局己??地域は百濟にうばわれたが, 帶沙地域は守り拔き, 倭 との交易窓口として繼續して使用した。これはこの時期大加耶が周邊の陜川・居 昌・咸陽・山??だけでなく蟾津江流域まで進出したということを示している。そ して土器をはじめ考古學的樣相は大加耶が5世紀中葉に黄江流域および南江上流域 を包括する聯盟体の盟主國になり, 5世紀末にこの大部分の地域を間接支配する段 階まで發展したという事實を確認させてくれる。